一国民として戦争を語る

高矢 君子さん(遺族)

 夫が戦後死されてからの生活の苦しかったことを少し話させていただきます。
 私の亭主は、シナ事変に行き、帰ってから結婚した。私のきょうだいは誰も兵役の人がおらず、その頃は皆、毎日毎日出征軍人を送っていたので、父はいつもちゃんと控えて出征兵士を送りに行っていました。あまりにも軍人の生活が身近にないものですから「お前だけは兵隊から帰った人でないといけない」と選んでくれたのが夫です。足掛け5年結婚していました。その間に3回召集が来て、小商売をしてたので、その間に兄たちが手伝いに来てくれたりして、津山でしてたんです。最後の召集令状が来たんです。津山の方ではお不動さんにお参りしてたんです。旧正月に、きょうと同じように雪が降ってました。私がお参りしようというと、主人がこんな山に参れんと2人でけんかしていたら、兄に「来たぞ来たぞ」と言われて、なんだと思ったら召集令状が来て、出て行きました。長男が5歳、次男が3歳でした。「もうちょっと大きくなってくれてたらええのに」と言うと、「いやいや私は2人が待ってるからものすごく力強い。友達は皆戦死しても私は絶対に還って来るからな。」と言って出て行きました。昭和20年3月11日でした。それからすぐに終戦になったわけですから、主人は普通の兵隊さんにとられたときに朝鮮兵でそのときに京城の方に行ったのですが、終戦になってから、ソ連がずっと入ってきて、鉄道でとっととっと還っていって、「皆元気で帰れよ」と見送っていきました。「一緒に帰ろう」といってくれたそうなんですけど、輸送の手伝いをしていたそうです。そうしたらソ連が入ってきて連れていかれて、丸1年使役につながれました。その間に体をこわして、にっちもさっちもならないようになっていたらしいんですが、私は帰ってくれさえしたらちゃんと生活ができると思い、ありったけのお金をはたいて引き上げ運動に東奔西走してきました。東京のソ連の領事館に行き、「弱体者から帰そう」と約束を頂き、喜んで帰ったんですが、その中で主人が弱体者の筆頭だったのか返していただくところだったらしいです。中国の新疆まで帰ってきたところで動けなくなって収容され、何日か介抱してもらってそれっきりです。その頃は毎日大勢が亡くなったそうで、裏山の谷に毎日五十体くらい放り込んで油をかけて焼いて土をかぶせたそうです。
 亡くなったと通知を戴いたけど、それから後から後から帰ってきた人からハガキや手紙をいただいたので、その人たちを全部尋ねていったら最後に九州の方が「高矢さんはわしが最期まで看取ったんだから絶対に帰ってくることはない。うろうろしなさんな」という手紙を戴き、亡くなったことを納得しました。
 それからの生活が大変だったんです。足掛け5年結婚生活していただけですが、ものすごい商売の好きな人で、津山で商売をしていて、「高矢さんは若いのだから商売せずに軍需工場に行くか農業をしてください」と町内会長から言われ、友達に「うちに来て」と言われて、荷物を全部まとめて行くつもりでしたが、兄に言ったら「何を言うのだ、百姓するんならうちに戻って来てしろ」と言われて、そのまま郷に帰りました。大変な苦労をしたけど貧乏のどん底から這い上がってきました。でも、まだ上のほうに行っていたらもっと悪かったかなあと思います。私が生まれ育ったところだから経済的に貧しくても、お友達なんかも近所の人も知ってる人ばかりで協力していただいたこともあったりして、子どももぼつぼつ大きくなりました。
 次男が小学校に上がるころだったと思いますが、ユニセフから貧しい家族に、同じ年の子に服を送ってきてくれたんです。親子でその服を着て写真を写したんですが、後から見たら息子が足元が草履と下駄を履いていたんです。下駄が磨り減って草履とまちがえたんだと思います。後で大笑いしたんですがそういう風な生活をしてきました。